2012/04/01

2012-04-01:ヒゴスミレ


















ヒゴスミレです。
個人的な意見ですが、ともかく、白いスミレ、とはなんとなく馴染みが薄い。
半年前、秋のころにだって、咲くのをとても楽しみにしていたのに、
実際に咲いているのを見て、拍子抜けをしてしまいました。
スミレは「紫」でないと、なんとなく気分が盛り上がらなかったりして。
「スミレ」とは、「墨入れ=墨壺」に似ていることが由来かもしれないと、
牧野富太郎先生は言ったとか(Wikipedia「スミレ」による)。
“墨”とは、紫に近い色の部分を見せることもあるし、
期待するのは、アヤシイ色なのです、ゴメンナサイ。
それに、「スミレ色」はやっぱり淡く上品な紫ですもの。

そういえば、突然に思い出しました。
紫というならば、夏目漱石の『虞美人草』にて、
“ウーマンリブ”な悲劇のヒロインの登場シーンは“紫”でした。
紅を弥生に包む昼酣なるに、春を抽んずる紫の濃き一点を、天地の眠れるなかに、鮮やかに滴たらしたるがごとき女である。夢の世を夢よりも艶に眺めしむる黒髪を、乱るるなと畳める鬢の上には、玉虫貝を冴々と菫に刻んで、細き金脚にはっしと打ち込んでいる。静かなる昼の、遠き世に心を奪い去らんとするを、黒き眸のさと動けば、見る人は、あなやと我に帰る。半滴のひろがりに、一瞬の短かきを偸んで、疾風の威を作すは、春にいて春を制する深き眼である。この瞳を遡って、魔力の境を窮むるとき、桃源に骨を白うして、再び塵寰に帰るを得ず。ただの夢ではない。糢糊たる夢の大いなるうちに、燦たる一点の妖星が、死ぬるまで我を見よと、紫色の、眉近く逼るのである。女は紫色の着物を着ている。『虞美人草(夏目漱石)』
男どもの心をぐいっと掴む、まばゆい登場シーンです。
明治に描かれたこの物語で、
美しくも新しく、モダン、教養も深く、奔放な女は紫。
男たちは、彼女をいかに“所有”するかを競い、
女たちは、彼女にいかに“勝利”するかを競います。
要するに、彼女の周辺が紫に“アタる”のです。
この後、クレオパトラの描写がありますが、
やはりどこか心を不安にさせる色彩です。
そして『虞美人草』の最後では、クレオパトラ同様、
ヒロインがパッと散って終わります。
美しい女の散り際はどうにも心に残って、
「なぜ死んだか」が今も論争のテーマになるくらいです。

スミレの魅力とは、妖しく穏やかでない色なのかもしれません。
…なんて言うと、何色にも染まっていない
真っ白なヒゴスミレに失礼ですね、ゴメンナサイ。
そういえば、『虞美人草』でヒロインの対局として描写される、
“ありきたり(物語では)”で古風な女は、
白や桃色、赤など“シアワセ”を醸しているのはおもしろい。
最終的に、男たちは彼女を“所有”しきれず、女たちも“勝利”しきれず、
シアワセとして身近で得やすいところを選び、
その瞬間、ヒロインは命を失うのです。
一説には、漱石は最後まで描ききれなかったともいわれています。
「漱石最大の失敗作」と言われる小説『虞美人草』ですが、
失敗作ゆえか、意図せず正直に、まっすぐに
意識が滲んでしまったように感じられる小説です。
(ロンドン留学にてノイローゼを経験した後の小説なので)

今日は新しい季節(=年度)の始まりですが、
眺めれば、雲の流れるスピードが早く、
晴天と曇天がみるみるうちに交互します。
それで、目に映る外の色は、安定感を欠いた色合いです。
そんな日は、純粋無垢な白いスミレにしておきましょうか。

そして今日は、エイプリルフールなのですね。

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