2013/05/31

2013-05-31:バイカイカリソウ

早朝の朝露のかかった庭は、キラキラ光って清々しい。
梅雨の晴れ間で、今日はバイカイカリソウの花が目に留まった。
小指の太さにも満たないくらいの小さな白い花。
支える茎もか細くて、どこにそんな力があるのだろうと思う。
こんなのが、雨にうたれてもまだ立っている。
いや、雨を楽しんでいると言ったほうがいいのだろうか。

5月の終わり。
梅雨の始まり。

2013/05/30

2013-05-30:セッコク


梅雨入り3日目の昨日の昼ごろより雨がやんだ。
おとついのような雨に備えてレインコートまで着込んで出掛けた甥も、
「空振りだったね」というような様子で
雨のグッズを両手いっぱいに持って帰ってきたのだった。
甥といっしょにデッキに陣取って果物をいただく。
いただきながら庭の木々を眺め、見つけたセッコク。
デッキからだと、視界にはヤマボウシの花のほうが主張して、
「ほら、あそこ、あの木の脇に、白いの」と言っても伝わらない。
甥は「ボクはこのニンジャみたいな花がいい」と、
やっぱりヤマボウシを指差して楽しんでいる。

着床蘭、セッコク。
今年も美しく花を開きました。
白い口を開いて、今年も何かを待っているような顔をしています。

セッコクの茎にはいくつも節があって、
それが大きな特徴とされることからか
セッコクの茎は「矢」や「バルブ」などのように
いろんなふうに呼ばれているよう。
医療にもよく使われることから、
記紀神話の医療神「少彦名命」にちなんで「少彦薬根」とも。
江戸時代からは古典園芸植物として栽培されるようになり、
葉変わりや、姿、模様を楽しまれた、いわゆる“柄物”とのこと。
花変わりが楽しまれるようになったのは昭和の終わり。
以上、Wikipediaより。

大きな木の脇に、脇役のように咲いたセッコクは、
白くて目立つくせに、まさに「チョロ」という雰囲気。
“着床”と聞くと思わず幸田文の「倒木の更新」を思い出すけど、
そこまでの深刻さも切実さも、みじんも感じられない。
もちろん、生きるために必死なんだろうが、妙にしれっとしている。
あまりにしれっとしていて、注意深く見ないと、または、
気分のピントがぴたっとセッコクに合わないと意外に見逃してしまう。
「セッカクやし、セッコクを」というダジャレは、
写真で見る以上にハマるのだった。


2013/05/29

2013-05-29:オダマキ








































毎日、こうして更新していると、
提供してもらう写真や教えてもらうハナシの偏り方にも、癖があるなと思う。
同じ植物でも、人によって見る角度が違うことに気付く。
好みの問題というのは、知れば知るほど奥が深い。
父と姉を遠くから見ていたときなら、単にふたりとも
「植物が好きなんだね」と思っていただけにすぎないのが、
最近はようやくほんの少しだけ、それぞれの好きな植物の傾向がわかってきた。
「植物が好き」というのは、全部の植物を好き、というのだと思っていたけど、
そうではなかったという、ごく当然のことを知って驚いたのだった。
とても新鮮な発見だった。

わからなければ、見ようともせず、理解しようともせず、
触れることも感動することもなく、ただ通り過ぎているだけなんだナ。
必要がないと思う知識はすぐに刈り取ってしまっていたんだナ。
知ることで、新しい反射角度が加わるような気がする。
“雑草はない”と牧野博士が言っていたそうで、
この“雑草はない”の解釈は、ワタシの頭の中ではこういうことでオチた。
植物を知り、自然を愛する人ならば、
他のもっとしっかりとした解釈をするんだろう。
その辺り、まだまだワタシはピュアで少し恥ずかしい。

オダマキの、このタネのビジュアルは、完全にワタシ好み。
写真は梅雨入りの直前に父が撮影。
撮って、と頼むと「花のほうが見栄えするのに」と父と姉が声をそろえた。
名前も花のカタチに由来する。
キンポウゲ科のオダマキ属。
ワタシは、今年の花は見なかった。
先日のクリンソウの近くの木陰で、
小さく口をとんがらせながら空を目指しているようで、
つい「がんばりや」という眼差しで見てしまった。
もう少しすれば、種がはじけて落ちるのだろう。

2013-05-29:サクランボのその後。


さっそく収穫。
せっかく成った子を、雨で“ワヤクチャ”にするのは忍びなかったから。
それで、今朝から父は一生懸命サクランボをおめかしさせて、
(つまり、霧吹きかけて)
いい光回りの場所にて撮影をしていた。

ぷりりんっと肉感のある小さな実。
キイロとアカのグラデーションがグラフィックみたい。
こいつは今日の夕方、甥の腹へと消えていくのだ。


2013/05/28

2013-05-28:サクランボ

ここに暮らすようになってもう何年にもなるけど、
やっとこさ、赤い実が成りました。
毎年のように「うちのサクランボはまだかな?」と待っていたので、
やっと待ち人来る、というところ。
しかも、ひとつだけ。
遠くからでもわかるのは、緑の中に赤い色でいるということ以外に、
「あぁ、やっと」という歓喜がこもるからでしょう。

サクランボのなかでも、これは、ナポレオンじゃないでしょうか。
この品種は、ナポレオンの名から想像できるように、
「大粒で締まりがあり、ほのかな酸味とともにたっぷりの甘み」だそうで、
ナポレオンの没後、ベルギーの王により名付けられたんだとか。
完熟したナポレオンは完熟した佐藤錦よりも美味、
という一部専門家もいるらしく、これからが楽しみ。
他の実も成ってくれたらいいのだけど。

こちらには昨日、梅雨入り宣言が出されました。
先週までの夏日の日差しが一転、
山の上の街ではまた、肌寒い日々が続きます。
収穫前に雨に降られると裂果してしまうそうなので、
雨よけのビニールでもかぶせようかな…と思案中。

2013/05/27

2013-05-27:キンギンカ

正式にはスイカズラ。
別名をニンドウ(忍冬)。
常緑性で冬にも葉を落とさないから、この別名がついているらしい。
秋から冬にかけての茎葉を生薬の名で「ニンドウ」とも言う。
こうして呼び名がたくさんあるということは、
それだけ愛着を持たれているということだろう。
スイカズラ、というのも「吸い葛」で、
子どもが蜜を吸って遊んでいたことからついた名なんだとか。

同じ株の中で白と黄色が混在しているのは、
受粉をすると白から黄色になるから、なんだとか。
そこから、中国ではキンギンカと呼ぶという。
ついでに、この時期に花(蕾)を生薬として使う場合もキンギンカ。


銀と金の筒状の花がこうしていっしょに咲いている姿は神秘的。
唐草模様に忍冬唐草模様というのがあることから、
当時の人にも、この姿は荘厳に映っていたのでしょう。




2013-05-27:ヤマボウシ

叔母が「やぁ」と庭から現れたときに、ふたりで庭を眺めながら、
増えすぎたオウレンの種について、
または、最近のワタシと叔母の共通の興味である
メダカについてハナシをしていた流れで、ふと、
「お父さんはヤマボウシが好きだったそうよ」というハナシになった。
「小さいころに、山で、頭にいっぱいリボンをつけてるみたいな姿を見て、
『あ、いいな、かわいいな』って思ったんやって」と言うと、
子どものころに父と遊びたおしていた叔母は
「え、そんなの、初めて聞いた」と目を丸くしていた。
そう、ワタシもこのハナシを初めて聞いたときに驚いた。
父が草花を好きだということは知っていたけど、
それがヤマボウシというのは、なんだか、意外だったのだった。
ヤマボウシが花をいっぱいにつけた姿は、
なんというか、ワタシにはとてもガーリーに映ったので。

ヤマボウシ。
ここへ移植されてきたころは、
皮がはがれ木肌が露になってしまったりと、
「ちゃんと居着いてくれるかな」「移してきて悪いことしたかも」
と心配が尽きなかったそう。
でも、今ではこちら(2012年6月の記事)でも話題になったように、
父の幼馴染みのようなヤマボウシはうちの庭の中心の木となった。
おじいちゃんの葬儀のときも、
手伝いに来てくれていた近所のおばちゃんが
「まぁ、なんとりっぱなヤマボウシやね、この実は好きなのよ」
といって場を和ませてくれていたりした。
普段の会話にのぼるのに充分な存在感と個性。
うちのヤマボウシは、とてもいい木なんだなとワタシも思う。

リボンのような、または、チョウが頭に留まったような
かわいらしい花が今年もついた。
中央の丸い花が坊主頭、その周りの4枚の花弁は頭巾。
それで、“山法師”と名前がついている。

2013-05-27:続・ナマエモシラナイキ



姉とパトロール中に「どこから来たんかな」と言っていた
この“ナマエモシラナイキ”とは、
父が言うには、どこかからヒョイと来たワケではないそうだ。

出所は天狗高原のちょっと手前にあるうちの山。
この家ができたころ、うちの山で、庭に移植する木を物色中に、
「なんやろニャ、この木、かわいいけニャ」と
おじいちゃんはうれしそうに持って帰ったそうだ。
さりげなく石段から自然に出てきた“変わった子”を演出して、
かわいらしく見せたかったのか、おじいちゃんが、
ちょうどこの石段から出てくるように植えたとのこと。
父は、石段から出てくるのが不憫に見えて
いつかこっそりなんとかしてやろうと思っていたらしいが、
「花がついてしもうたけニャ、かわいいけニャ」と
この場所で様子をみることにしたらしい。

意外だったのは、ヤマユリやツバキなどの派手でわかりやすいものか、
もしくは有用性の高いもののほうが好きなはずと思っていたおじいちゃんが、
この木を「かわいいニャ」と言って穫ってきたハナシだった。
ワタシからしてみれば、おじいちゃんの好みの対局にあるように見える。
地味で弱々しくも見えるこのツツジのような木。
並んだベル型の小さくて白い花たちは、
今にも開きそうに唇をとんがらせているようにも見える。



2013/05/25

2013-05-25:ナマエモシラナイキ

うちの庭の入り口の階段のところ、石段の隙間を縫うようにして、
ドコカラキタノカワカラナイキが 生えていた。
何も、好き好んでここを選ばなくても…。















一体、この方はどういうふうにしてここへ来たのだろう。
そして、一体、あなたはだあれ?

高さは80cmほど。
比較的明るい色の、縁の波打つ葉。
ベル型の白い花が鈴生りについている。
姉曰く、「ツツジの一種かなぁ」と。
「こういう子は、酸っぱくて、小鳥にとっておいしい実を成らす子が多いよ」
ツツジの一種、スイシバやブルーベリー、
あるいは高山植物のコケモモなんかをイメージしているようす。
しかし、こんなところに出てくるなんて。
もっと栄養のある、安定して寝やすいところにいてくれてもよかったのに。

もしわかる方あれば、教えてもらえるととてもうれしいのですが。。





2013-05-25:キイチゴ

花の時期もココロがワクワクと弾むもんですが、
果実の時期ならば、顔までユル〜くトロけます。
「うちにはなかなか成らないねぇ」と日々気をもんでいたキイチゴが、
じつは石垣の向こうに向かって枝を伸ばした先で実をつけているのを
昨日の朝に見つけて、それが、うちでは小さなニュースに。
自分で穫って食べたいけれど、
石垣からかなり身を乗り出さなければ穫れないところ。
せっかくできたのにねぇ、どうやって食べようか。

今朝、甥がお皿にキイチゴを乗せてうれしそうに頬張っていました。
「あれ、どうしたの。誰か持ってきてくれた?」と言うと
「おじいちゃんが枝を切って穫ってくれた」。
デッキを見ると切られた枝が大事そうに置いてあり、
どうやら挿し木にでもして、場所を変えて生きることにしたらしい。


「キイチゴ」にはいくつか種類があるようで、
うちのは、葉っぱがモミジに似ていることから、モミジイチゴと思われる。
モミジイチゴの果実はキイロなので「黄イチゴ」の別名もあるんだとか。
天狗高原の少し手前にある、うちの山から移植したとのこと。
今日は天気も良くて、果実がキラキラと光っています。
サクラやウメやツツジにまぎれて花が咲いていたのを知らなかった。
いつの間にか、誰も知らないうちに結実していたのね。

…そういえば、うちの庭のイチゴは、
ほとんど毎日のように穫って食べています。
キイチゴもこんなに。
なんというか、シアワセだなぁ。
全部、食べられるかなぁ。


2013/05/24

2013-05-24:クリンソウ


茎の中心から花茎を伸ばし、
輪を描くように円状に花をいくつも咲かせている。
中心の茎も伸ばしながら咲いているので、
花は下から段々と重なっていく。
上段の蕾はまだ新しいものだ。
色は派手めの赤で華やかだが、その様子は、
なんだか色気がないけれど、建築現場の様子を彷彿とさせはしまいか。
この姿は仏閣の屋根にある「九輪」に似ていることから、
この名で呼ばれているらしい。
そのハナシを聞くと、より一層、建物の層が上に向けて
連なっていくのを下から眺めている気分になる。

クリンソウは、サクラソウ科サクラソウ属。
はっきり言って、恥ずかしいけどワタシは初見。
横で姉が「ていうか、サクラソウといっしょやん」と不満を漏らしている。
それよりも、これだけ派手にフラメンコのように花をつけているのに、
ベゴニアなどのように下品でなく(ごめんなさい!)、
どこか漂う“お祭り”のような素朴さが、むしろ新鮮に感じられてよい。
学名は「Primula Japonica」と言って「日本のサクラソウ属」を指すとのこと。


小林一茶の有名な句に
九輪草 四五輪草で 仕舞いけり
というのがあるそうで、要するにこれは
「“九輪草”て名前やのに、四五輪で終わるんかい」というツッコミ。
でも、うちの庭のクリンソウはこんなにも花をみごとにつけている。
今しがた数えてみると、10以上もボンボリみたいな花があり、
10を過ぎたところで数えるのをやめた。
ぜーんぜん、ちゃんとあるじゃん。
ワタシが一茶に教えたる、と思わず鼻息が荒くなった。


2013/05/23

2013-05-23:クガイソウ


「ま、今がギリギリ見れるかニャ」
「そうやね。今しかないね」
という父と姉が言うのは、玄関先のクガイソウのハナシ。
美しい今は、ひどく涼やかで、流れるように優雅。
風に揺れたり雨に濡れたりしている姿も、
しっとりとうなじを垂らした女性を彷彿させる色香模様。
紫の小さな花々を穂状にふるふると揺らし、
今年も多くの媒介者を集めているのでしょう。
こんな時期には、みんなこぞってため息を漏らすのに、
たしかに、見頃を過ぎると見るも無惨。
薄紫色ではなくなった花穂が散乱し、
なんというか、本当に乱れた姿となるのだ。

ハッと目を引く美しさを誇る花々は、季節の代名詞であることばかり。
その花の終わりの姿はいつでも、
その季節のままに留まっていたかったような切ない気分に少しさせる。
サクラも、ツツジも、ツバキも、
散った後の姿すら多くの歌に詠まれているのはそのせいだ。
うちでは、玄関先の、いつも目に入るところで佇むクガイソウがその役目を負う。

美しい季節と、“終わり”の季節。
終わったとして、でも、周囲を見ればまた新しく美しい季節ははじまっている。
実はエンドレスにぐるりぐるりと連鎖しながら続いている。
今が終わっても、いつかまたやってくる。
そんなことは、ずっと前から、みんな知っているのだけど。

クマガイソウの今は、まだ、はじまったばかり。
ねぇ、だから、そんなに急がないでおくれやし。


2013/05/22

2013-05-22:ヒメサユリ

それこそ先日の姉との庭のパトロール中に、
草の陰からひょいと小振りなピンクの顔がのぞいているのが見えて、
「あら、かわいい」とついつい思ってしまった。

ワタシからすると、どんなユリであっても、こんなふうに、
ユリをかわいいと思うとは思わなかったので少し驚いている。
というのも、ここに引越す前の家には
よく山から摘んできたヤマユリが挿してあって、
ワタシはその花の匂いも、黄色の花粉が落ちて散らばってるのも苦手だったから。
“生涯・生物部”を自任する姉は子どものころからヤマユリが好きで、
ヤマユリの花びらの内をのぞいては、自らがハチか何かの代役となって
よく爪楊枝なんかを使って受粉をさせていたのだった。
姉の、植物に対する健気な姿は大人たちから喜ばれ、
妹のワタシにとっても羨望の的だったのだけど、
ワタシはどうしてもヤマユリが好きになれなくて、
姉がするようにできることを幼心に諦めた次第。
それが入り口となって「植物はわかりまへーん」とハナを垂らしていたのが
今になって、まさか「かわいい」なんていう感想が浮かぶとは。
それも、信じられないことに、ユリに。

オトメユリ、というのが学名らしい。
自生している土地ではヒメサユリの名で通っていることが多いとか。
ほんの微細な違いだけど“オトメ”よりも“ヒメ”のほうがしっくりくるのか。
“オトメ”だとちょっとだけ美しすぎる。大人しい、か弱い感じになりすぎる。
“ヒメ”だともう少しだけ元気があって、
なんだか頭をウリウリウリとなでてあげたい気分。
いっしょに過ごしている土地ならば、こちらのほうが合っている。
でも、ま、いずれにしても可憐な姿を彷彿とさせる、
まさに“名は体を表す”…もとい、“体は名を表す”ではないでしょうか。


--お知らせ

うちの庭の写真を撮っている父が、
イナカの暮らしを切り取る(?)写真ブログ「e-naka photograph」を再開。
「国道197号線の物語を撮り続ける」写真ブログ「R197」も健在です。
よろしくお願いします。

2013-05-22:イチゴのつづきのハナシ。

甥の最新兵器“iPadちゃん”をのぞいてみたら、こんなものが。
おじいちゃんが写真を撮るのに触発されたのか?
このイチゴは、この後で収穫され、
ただいま冷蔵庫にて審判のときを待っております。

2013/05/21

2013-05-21:イチゴ

今年のイチゴ。
りっぱに成りました。
毎日、学校へ行くとき、学校から帰るとき、
「これは、明日くらいかな。あれはそろそろいい?」なんて、
イチゴの観察を怠らないイチゴフリークの甥。
今日(今日は春の運動会の代休)もキレイなイチゴを見つけて
「おーじーいちゃ〜〜〜ん」とおじいちゃんを探しまわっていました。
庭のこと、花のこと、野球のことはおじいちゃんに聞くのが確かなのです。
でも、そのときはすでにおじいちゃんは出勤後。
お・あ・い・に・く、でした。

昆虫なんかに食べられたほうが子孫繁栄につながるんだろな、と思いつつ、
もちろん、もれなく甥の胃袋へと消えていくのです。



2013-05-21:アマドコロ

「アマドコロ」とは「甘野老」と書くらしい。
ヤマイモの一種にある「野老」というのは苦いのに、
よく似たコイツは甘いぞ、ということなんだとか。
ごめんなさい、「アマドコロ」と聞いて“雨処”かなぁって思ってました。
だから、よく知らないのに「湿気の多いところに生えるんだろな」と。
カエルとか水分を好む小さなイキモノたちの棲家にしやすいのかな、とも。
本当の由来を知ってちょっと驚いたのは、
葉の斑も茎のグラデーションも
こんなにも整っているのに食べられる、ということ。

見た目が麗しくないから美味しいはず、実用的なはず、
という勝手なワタシのイメージもどうかというもの。
植物はニンゲンサマのために生きているワケではないのですから。
その対偶の位置にある
「ルックスがいいから美味しくないはず、実用的でないはず」という
仮定も成り立たないのですね。
だいたい、ニンゲンサマに美しく映るからと、
他のイキモノにもついつい、暗黙的に押し付けちゃったりしがちですが。
その逆もまた然りですね。
なーんて、至極当然・アタリマエのことを確認するのも何度目でしょう。

アマドコロ。
最近は美容分野においても人気があるんだとか。
美肌効果を期待して、化粧水なんかにも配合されているらしいです。

2013/05/20

2013-05-20:バイカイカリソウとアマドコロ

山仕事を使命としていた祖父が自由にカラダを動かせなくなって以来、
うちの庭の野草たちは元気に伸びるようになった。
先日のクリスマスローズは、実は数年前に姉が植えていたようで、
でも、元気に大きくなったのはほんのこの1、2年のこと。
「おじいちゃんが庭の世話をしよったき、伸びんかったがやね」と姉は苦笑。
そう、いわゆる“イラチ”で整理好きの祖父は、余韻を好まない。
庭の世話でも同じく、結論早く、悩まず、
わかりやすいもの以外はトントンと刈っていたようだ。
祖父が昨年亡くなり、庭は今、野草の天国となった。
…というか、辺りを丁寧に見回してみると、
クリスマスローズだけじゃなく、なにもかもが秩序なくそこらかしこにあった。
「う〜ん、すぐに刈ってしまわれるのはイヤやったけど、
なんか、おじいちゃんのやってたことは間違いじゃなかったがやね…」

姉と庭のパトロールの最中に見つけた
バイカイカリソウとアマドコロとのツーショット。
バイカイカリソウは、ここに植えられたと思われる。
アマドコロは本当にここだったのだろうか。
でも、仲良く並んでいるのでよしとしよう。
ただ見て知って喜んでいるだけのワタシには、これでも充分。
写真も、バカチョンの記念写真でしかありませんな…。

バイカイカリソウは、昨年のちょうど今ごろにも紹介している。
花も見頃だけど、ワタシはこのペラリっと薄くて小さい葉がお好み。
細くて弱そうに見える茎も好き。

--

追記。
父より「クマザサじゃなくナルコユリ」との指摘あり。
おっと、失礼いたしました。

さらに追記。
クマザサ…でもなく、アマドコロでした。
お恥ずかしいかぎり。

2013/05/17

2013-05-17:クリスマスローズ







































4月の頭、広島のイナカにある母の実家にて
畑仕事を手伝ったあとに、叔母から、
「クリスマスローズは、高知の庭にも似合うでしょう?」と聞かれた。
畑の横に咲いていたクリスマスローズ。
名前から連想されるのと違ってきらびやかでなく、
葉の色とほとんど同じ色、空気をたっぷり含んだ
フレアスカートのような花びらは地味ながら静かに華やかで品があり、
「いいね、みんな好きなはずよ」と答えていた。
しばらくぶりに家に帰って、庭を散策していると、
あのときに話していた葉の色のフレアスカートがあったので
「あら、あなた、いつ来たの?」と驚いた。

父に聞いてみると、
「それは、お母さんが好きで、どっかから手に入れてきたんやろ」
とのこと。出所はわからず。
もしかしたら、ずいぶん前にすでにここにあったのかもしれない。
もしかしたら、母は広島からずっと前に運んできて植えていたのかも。
だから叔母も「クリスマスローズ、どう?」みたいな口ぶりだったのかも。
なんだか少しうれしくなった。

クリスマスローズ。
クリスマスの時期に咲くバラに似ていることから付けられたらしい。
荒れ果ててしまった土地に自生することから、
総称はヘレボラス(ギリシア語で地獄)。
他に「雪起こし」という名もあり、そのたくましさを象徴している。
じぃっと雪を溶かすように、
じぃっと静かに“そのとき”を待っている、といったニュアンスか。
そういえば、母の好きな服の延長線上にある花だなと思った。

2013/05/16

2013-05-16:ミヤコワスレ


庭の小道に入っていくと、
可憐に咲いた小さなアイドルたちに出迎えられる。
ミヤコワスレ。
その名は、かつて順徳天皇が都から流され、
流される前の京都でか、流された先の佐渡でか、
花に目を留め「都を忘れよう」とか
「都を忘れられないかも」と言ったのが由来とか。
それで花言葉は「別れ」「しばしの憩い」となっている。
たしかに、その意味で思うならば、
「慰め」というのにふさわしい楚々とした姿。
群れになって咲いているのが微笑ましい。

さて、このブログはこのミヤコワスレから始まった。
春の浮かれた気持ちがおさまったころの、
チアリーダーのような出で立ち。
今日も甥と姉と父は学校と仕事へ出掛けていく。
ちょっとおこがましい(むしろ照れくさい)けど、
ワタシもこの群れの一員となって遠くから思いを馳せている…?





2013/05/15

2013-05-15:ウラシマソウ

浦島太郎が釣りをしている姿に見立てたらしい。







































「何の花が好きか」という質問には、
だいたい、「カラー(襟)のあるやつ」と答えることにしている。
子どものころのある日に同じように質問されて、
ちょうどそのときにパッと目に入ったのがソレだったからだ。

それまでは、だいたい「ヒマワリ」と答えていた。
かわいすぎもせず、美しすぎもせず、
夏に明るく、元気な感じがするのは印象がいい。
スポーツに勤しんでいたワタシにちょうどいいと思っていた。
だから、「カラーのあるやつ」と答えるのはちょっとした冒険だった。
相手の反応は覚えていないけど、
それ以降も同じように答えているということは、
そう答えたことに気分がしっくりきたからに違いない。
ウラシマソウの他に、ユキモチソウやマムシグサもあるけど、
ま、だいたい、そんなところだ。

母の本棚には、いろんな資料に混じって、よしもとばななの本があった。
三角の、絨毯の黄色い、日当りのいい小さな部屋。
そこにこっそり忍び込んで初めて読んだのが『キッチン』。
あと、『N・P』に『哀しい予感』。
他にもこっそり読んだものがあったけど、忘れてしまった。
小学校では『ルドルフとイッパイアッテナ』や
『大泥棒ホッツェンプロッツ』なんかが好きだったけど、
そこで描かれている世界とは違って、大人っぽくって、ドキドキした。
お母さんは大人の女の人なんだな、と思った。
忍び込んでのぞき見するみたいに読んでいるのが、
余計にそんな気分を助長したんだと思う。
装丁が印象的で、特に、首の長いヒトのイラストがステキだと憧れた。
そう、回り道をしたけど、「カラーのあるやつ」は、
「首の長いヒトのイラスト」を想起させていたのだった。

他の花のように、豪華だったり華奢だったりということを思わせない。
天真爛漫でもスネているようでもない。
何かをデフォルメした抽象絵画のようであり、
生々しくないから余計に、生々しさが印象に残る。
いったい、何を思わせたくてそんなに首を長くしているのか、
いったい、何を伝えたくてそんなカタチをしているのか、と勘ぐらせる。

このカラーの奥には雄花か雌花があって、
虫たちはそこへ誘い込まれて花粉を届ける仕事を行っている。
また、ウラシマソウは、育っていく段階において
雄花になるか雌花になるかを決定するらしい。

2013/05/14

2013-05-14:タケノコ

タケノコ、タケノコ、ニョッキッキ。昨日は見る影もなかったのに…。

ニョキニョキ。
ちょっと見ぬ間にニョッキ・ニョキ。
思わぬとこからニョッキ・ニョキ。
確かに旬ではあるけれど、
こちらに来るとは露知らず。
根っこはしっかり這ってるだろう。
思えばココロが重くなる。
ニョキ。

スクスク。
苔の隙間をぬうように、
土からちょこっとのぞいたよ。
スクスクスクとまっすぐに、
気付けばこんなに伸びていた。
根っこはしっかり這ってるよ。
だからキモチが心強い。
スクスク。

ニョキ・ニョキ
スクスク
ニョキ・ニョキ
スクスク

ねぇねぇ、ちょっと。
少しは手加減してみたら。
いやいやまだまだ伸びますよ。
ふらりと陽気に起こされて、
伸びをしてたら伸びるのです。
ニョキニョキ・スクスク、
うーん・ニョキニョキ、
おあいにく。

--

毎年のゴールデンウィークに、
姉夫婦&甥はキャッキャと連れ立って
姉のダンナの故郷、阿南へと帰省する。
帰省した先には美しい竹林があるそうで、
いつも、タケノコをたっぷりとせしめてくる。
それがとっても美味なのでゴザイマス。
タケノコご飯
タケノコの木の芽和え
タケノコの刺身
タケノコの天ぷら
タケノコの煮物
タケノコの炒め物...などなど
姉が結婚して以降、毎年この時期は、
新しくてやわらか〜いタケノコに熱狂するようになった。
そして今では、新しい我が家の風習として定着している。
今年も、伸びやかなタケノコをいただきました。
うふふ、タケノコ、だ〜いすき!なのでゴザイマス。

しかし、ワタクシドモの勝手な希望ではありますが、
うちの庭から、何の前触れもなくニョキりと顔を出し、
ひっそりと、しかしそんなに堂々と、スクスク伸びては困るのです。
あー。手前勝手な希望で誠にキョウシュクナノデスガ...。

2013/05/13

2013-05-13:クマザサ


「クマザサも伸びるにゃぁ〜」と朝から聞こえたぼやき。
写真の他に庭いじり(≒庭の草むしり)という高尚な趣味を持つ父、
クマザサは庭をビルドアップしているときに、
好きで植えたんだそうだが「どうも、伸び過ぎちゅう」。
きっと、来週の今ごろにはこのアホげに天を目指す姿は見られないと思い、
慌ててケータイで撮影した次第。
小さな苔たちの中でシャンと背をのばして空を見ている姿は、
他の草と比べてもいじらしく見えることがある。

たとえば、トトロがメイちゃんを探しに出掛ける辺りのシーンで
一生懸命に天に向けて何か祈祷する(たぶん)と、
土から「ポコ、ポコポコッ」と芽が出てくるシーンがある。
出てきた芽が伸び、伸びた野草たちがいくつもと絡み合いながら
1本の大きな木になる...という夢のようなことは実際にはないにしても、
妄想の調子が良ければ、こんなクマザサの様子を見ると
「ポコ、ポコポコッ」と頭で音が鳴って、
あのダイナミックなシーンが浮かんでくるのだった。

ふと、クマザサは、そういうときにデフォルメされて
「芽」や「草」として描かれるものの代表なのかも、と浮かんだ。
もちろん、アニメやイラストに登場する芽や草は
何かを特定して、ではないことのほうが多いとは分かっているのだけど。

自生状態のクマザサは京都の鞍馬山などにしかないそうで、
今の「草」の代表格としての地位は、
人為的に全国に広げられたことによるらしい。
「どこにでもある特別でないもの」というのは、
クマザサにおいては、「つまらないもの」「退屈なもの」というより、
間違いなくみんなが好きなもの、害のないものを意味するようだ。
「害がない」の部分についてあえて言うと、
クマザサはいろんな食品や薬品の原材料となっていることが多い。
それで、インターネットで検索してみても、
その姿形よりも効用や効能ばかりが出てくるのだから、
いかにこの姿が珍しくないかがわかるでしょう。
当たり前のように当たり前のことをして、
何か特別なことを期待するでもされるでもなく日々を過ごしている。

クマザサは、こんなふうに写真に撮られてさぞ驚いていることでしょう。
「トトロに描かれたのはナニ?」なんて追求するのも野暮ですね。
(いや、樫の木になるんだから、間違いなくソレなんだけど)

コケの間からポンッと。(さとみ撮影)

2013/05/10

2013-05-10:スズムシソウ

花の唇弁がスズムシに似ているということで、牧野博士が命名。
林(木陰ということか)と充分な空中湿度を好むそう。








































名前の通りに鈴の音を奏でる虫が
いくつも停泊しているような様にちがいない。
スズムシのオスは、その羽を擦り合わせてメスを恋う“声”を出す。
でも、スズムシソウからは、
スズムシほど切実な感じがしないのはなぜだろう。
私には、「見つけてほしい」とも
「見つけないでほしい」とも特に何も言わずに、
ただ、普通のツルンとした涼しい顔で立っているように見える。

生態はいわゆる“草食系”というべき執着のなさ。
涼しくて程よく湿度のある林の中を好み、
「10年ほどで3株に殖えることもやっと」というほどに、あるいは、
東北では「一輪車で塀の上を進む最長不倒記録」と比喩されるほどに
繁殖どころか親株の維持すら難しいのだそうで、
株が増殖することはほぼないといっても言い過ぎじゃない。

今日は恵みの雨でしょうか。
でも、ここ東津野の山あいにあっては、
日が照らなければ昨日までの初夏の気分はどこへやら。

先日も記録したスズムシソウを、珍しいのでもう一度。

2013/05/09

2013-05-09:オキナグサ

オキナグサ。後方にはまだキューティクルを保った若輩者。(さとみ撮影)






































春の二つのうずのしゅげの花は
すっかりふさふさした銀毛の房にかわっていました。
野原のポプラの錫いろの葉をちらちらひるがえし、
ふもとの草が青い黄金のかがやきをあげますと、
その二つのうずのしゅげの銀毛の房は
ぷるぷるふるえて今にも飛び立ちそうでした。 
⎯⎯「おきなぐさ」宮沢賢治

洗濯日和の日が続く連休明け。
うちの庭のオキナグサはそろそろ“ふわふわ時”に。
というか、今朝、庭にぶらりと出てみるまで
もう“ふわふわ時”がきてるのがあるとは思っていませんでした。
これは花のあと、若い果実の時期を過ぎ、
いよいよ成熟のときがきた証し。
去年も記録(2012-04-282012-03-28)しています。
やっぱり私はオキナグサをひいき目に見てしまっているのでしょうか。

私にとってはこの姿は名前の通り「翁」に見え、
だから「オキナグサ」とは、何の疑問も迷いも抱かずに
すっとココロに留まった植物の名と姿だったのでした。
そして「名前のわかるもの」とはつまり、
「好きで興味のあるもの」に他ならないでしょう。

さて、この植物を、宮沢賢治が童話にしたというのを、
こないだ初めて知ったところです。

物語はこんな冒頭から始まります。

うずのしゅげを知っていますか。 
うずのしゅげは、植物学ではおきなぐさと呼ばれますが、
おきなぐさという名はなんだか
あのやさしい若い花をあらわさないように思います。
そんなうずのしゅげとはなんのことかと言われても
私にはわかったような
またわからないような気がします。 
それはたとえば私どもの方で、
ねこやなぎの花芽をべんべろと言いますが、
そのべんべろがなんのことか
わかったようなわからないような気がするのと全くおなじです。
とにかくべんべろという語(ことば)のひびきの中に、
あの柳の花芽の銀びろうどの
こころもち、なめらかな春のはじめの光のぐあいが
実にはっきり出ているように、
うずのしゅげというときは、
あの毛茛科のおきなぐさの黒朱子の花びら、
青じろいやはり銀びろうどの刻みのある葉、
それから六月のつやつや光る冠毛がみなはっきりと眼にうかびます。 
⎯⎯「おきなぐさ」宮沢賢治

中には、
おきなぐさはその変幻の光の奇術(トリック)の中で
夢よりもしずかに話しました。
などのなんともきれいな表現も。
オキナグサを巡る小さくて雄大な世界が広がっています。

とにかく、うちの庭は初夏。
引用ばかりで長くなってしまいました。

2013/05/06

2013/05/05  うちの庭の連休


5月の連休は、うちでゆっくりした。久しぶりである。

昨年の2月、突然に携帯電話が鳴った。
近所の葬儀の手伝いをしていた。
電話は大学の教員をしているらしい、少しだけ知っている人からだった。
「西村さんのことはよく知っているんです。教員として来ていただきたいんです。」

それから............................一年余。
慌ただしく過ぎた。
いろいろあったけど、現在、大学で地域看護学を教えている。

久しぶりに帰った庭は、すっかり緑で、清々しい。
「わあー、きれい」と思わず声が出た。
木々はしっかりと根を下ろし、力強く新しい葉を広げさせた。

そして、木々の根元には、地味な花々が、しっかりと主張していて、
頼もしく、嬉しくなる。



スズムシソウ




























クロユリ






























2013-05-05:クマガイソウ

クマガイソウ。大きく膨らんだ唇弁がどっしりと。いくつかの鳥類とも似てなくない...か。






































うちを訪れてくる知人のうちの数人くらい、
「せっかくやから庭を見ちゃろと思って」と
玄関でなく庭を回ってやってくる人もいる。
そのうちの一人が、父の妹で、私のおばさん。

ある日、おばさんは、元気よく「やあ」と手を挙げながら現れた。
「ここの庭は、野草がのびのび生えるのにちょうどええがやねぇ」
ふたりでのんびり、縁側に座って庭を眺める。
「クマガイソウはね、U下さんくの庭に群生しちゅうけど、ここも見事やねぇ」
ふーん、と思いながらクマガイソウに目をやる。

厚くだらしなげな唇で、オーガニックにキメたセクシーポーズ、
それにほんのりの紫の紅。
一本ずつを見れば、確かに、どことなく気高くもキケンな雰囲気が漂う。
でもその一方、大きな唇弁や、エリマキトカゲみたいな大きな襟(葉)は、
なんだかやり過ぎ感もあってやや間抜けだ。
いったい、どこのどなたに向けたアピールなのだろう。
人間に向けてなら、その唇も葉も、
もうほんのちょっとだけ小さいほうが絵になるだろうに。
珍しい花だし、見知らぬ人なら「ほぅ」と感心するのだろうが、
うちの庭でいくつも並んで立っている様は、
なんだか少し滑稽にも思えて笑ってしまう。
そういう「痘痕」のあるものは、
「私しか好きになってあげられないはず」という気分をそそる。
私の好みは、四方八方にバランスよく笑みを向ける花よりも、
クマガイソウみたいに、すべての人にわかりやすくなさそうな花のよう。

「私はねぇ、クマガイソウが好きよ」と言うと、おばさんは、
「私もねぇ、若いころはこういう野草が好きやった。
でもね、今は派手でわかりやすいのがいい」と答えた。
「年をとるといっしょに失われていくものを、“好み”で補いゆうがかもしれん」
そういってもう一度、うちの庭を見まわしてみると、
おばさんの好きそうな花はありそうになかった。
「どうもそんなのは、うちの庭にはなさそうやね」というと、
「まぁ、まぁ、これはこれで」。ウフフと笑ってコーヒーをすすった。